作るべきかやめておくべきか、迷いに迷ったのですが、結局今年は「制作するための時間がとれない」ということもあって、作らないことに決めました。
時間がないという中には、ご案内のDMを作るための時間なんかも含まれていまして、ちょうど本業の方も多忙であることなどから、断念いたしました。

昨年来、本当にたくさんの方々から「次も作って欲しい」というメールやお電話を頂戴しておりましたが、申し訳ありません。

ま、去年の号の“編集後記”で「多分これが最後のサンカイスポーツです」と書きましたが、また機会があれば来年以降考えます。

思えば、最初に「何となく」やってみようかということで作ったのは、もう18年も前の昭和58年のことでした。
当時、事務所のあったビルの名前が「三海(サンカイ)ビル」で、しかもその3階にあったことで、単純につけたのが「サンカイスポーツ」でした。
“仁義”として、似たような名前? のサンケイスポーツさんにもご挨拶に伺いましたし、当時大阪の桜橋にあった球団事務所にも事前お伺いをしました。
球団事務所では、当時ファンサービス課長をされていたMさんにお会いしましたが「作ってもいいですか、と聞かれれば、出来れば辞めて欲しいとしか言えません。ウチのファンの方々にはほんとにいろんな方がいらっしゃって、球団の方にクレームを持って来られる(つまり、しょ〜もない新聞を作ってるから、阪神は弱いんや、とか)かも知れませんので。…だからまあ、この話は聞かなかったことにします」というご返事でした。つまり作るのならどうぞご勝手に、球団からは禁止や、とかいった手段は講じませんので、というニュアンスでした。

びっくりしたのは、サンケイスポーツさんの反応でした。
当時編集局長のT氏と販売部長のT氏が、最初の号を出した直後にお揃いで事務所に直接来られたのでした。それはもうびっくりしました。「似たような新聞を出されて、迷惑を蒙った」というクレームだと思ったのです。
ところが実際は「サンスポ紙面に“こういう感覚”で連載モノを」というお話でした(結局このお話は、ずっとお断りしていたんですが、昭和62年、63年に毎週火曜日紙面で「週刊タイガース」という全8段の連載というかたちで実現しました)。

ちょうど3号目を出した昭和60年には、本当にタイガースが優勝してしまう、という奇跡も起きました。
それから13年。サンケイスポーツが、競馬雑誌の「Gallop別冊」として「阪神モノ」の特集号を出す、ということになったときに、紙面でサンカイスポーツを復活させませんか、というお話をいただき、制作したのが3年前のことでした。そして野村阪神となったときに、広告代理店のH堂さんから「“関西から元気にしたろう会”というイベントのために、サンカイスポーツを」というお話があって、14年ぶりに新聞大のモノクロ4ページを制作。それならカラー版で本格的に作ろうか、ということで制作したのが、一昨年のものでした。

そして、去年です。…生意気なようですが、これがこれまでのサンカイスポーツのおおまかな経過、です。
ホントに極めて個人的な「お遊び」としましては、よ〜やったで、というのが正直なところです。

では、またいつの日か。 2001.3.17 君塚 隆太

「サンカイスポーツ」の詳細については→こちらへ もっと知りたい

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